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無二無三

『新選組を探る』、『川崎尚之助と八重』、『慶応四年新撰組近藤勇始末』、『慶応四年新撰組隊士伝』著者、あさくらゆうの公式ブログです。主に取材、調査、日常のことを記しています。 *当該ブログで掲載した画像の無断転用は固くお断り申し上げます。なお、論争の道具にすることは固くお断り申し上げます。*拙ブログについての問い合わせはTOPページよりメールでお願い申し上げます

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「谷右京」新聞発表について

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 谷石水の菩提寺だった東京都荒川区の南泉寺

 このページにも記載しましたが、このたび「谷右京」こと、谷石水が壬生浪士の同志で頭分だったことを示す「文久元治亥子太平録」の部分について記事公表いたしました。

 実はこれは年末、壬生浪士の配置図を新聞発表した際(NHKヒストリアでは会津図書館が発見したように報じられましたが)、すでにその存在は確認していたのですが、裏付けに時間を要しました。

 まず、谷右京が「谷水石」と同一性を確認した際、「太平録」が「丹羽」と記載していたため、当初は二本松藩を考えたのですが、谷姓は確かにいたようですが、どうも違うということが確認できる代わり、谷水石の存在と、山口県文書館に所蔵される「上京有志浪士姓名禄」に「丹波柏原 谷右京 六十三歳」と確認できました。実際に谷の没年の同一性を確認するため、当時菩提寺だった荒川区の南泉寺に確認したところ、過去帖に七十七歳の記載があったため、浪士組の谷右京と谷石水の同一性が確定され、近世偉人伝の裏付けを行ったところ、明治6年に確かに「勝海舟日記」には「谷某~」と名前が確認できました。

 なお、谷が右京から石水に改名したのは慶応4年に田安家の家臣となったときのようです。田安家の家来として明治3年に記載も確認できます。当時日暮里に住んでいたことから菩提寺を南泉寺にしたのでしょう。故郷とは完全に没交渉だったようです。

 ひとつだけ心残りは山県有朋の逸話を傍証確認していないことで、これは何かの機会に考えたいと思います。

 なお、谷家の墓所は代が絶えたのか、現在は南泉寺にはありません。南泉寺も昭和20年の空襲でかなり焼失しており、墓石が破壊されており、もしかしたらそのひとつにあったのかもしれません。現在同寺の檀家でもないため、たぶん代は絶えたのではないかと考えられます。

 もし、谷右京の浪士組以前の記述のある文書がございましたらメールでご一報いただけると幸いです。

 取り急ぎご報告まで

あさくらゆう

*なお、本名は谷石水が正しく、近世偉人伝で間違えられた際、現在まで踏襲され現在に至ります。

追記:壬生浪士と浪士組を混同して異を唱えているコメントを見つけました。「上京有志浪士姓名禄」を利用した部分は出自の年齢のみで、「壬生浪士頭」に記されている人物の同一性の確認です。時期は史料がないため「8月18日政変のこの時期はそうだった」ということのみを述べております。これは同書の別の場所に頭分が三名だった記載があるからです。ただし、3月結成当初にいたか?あるいはいつ脱退したか?というのは5月以降加盟、9月までの期間と推量します。私自身は便宜上、公表の際、記事執筆をプレスに任せている以上、「壬生浪士組」、「隊士」という名称を黙認していますが、慶応3年の軍事改革以前は「壬生浪士」で「組」は付かず、隊士の名称はなく「同志」であったということは付記しておきます。こうした事例があることはご承知置きください。会津関係史料№18に同書は会津図書館にありますので熟覧いただければ幸いです。

 


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