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無二無三

『新選組を探る』、『川崎尚之助と八重』、『慶応四年新撰組近藤勇始末』、『慶応四年新撰組隊士伝』著者、あさくらゆうの公式ブログです。主に取材、調査、日常のことを記しています。 *当該ブログで掲載した画像の無断転用は固くお断り申し上げます。なお、論争の道具にすることは固くお断り申し上げます。*拙ブログについての問い合わせはTOPページよりメールでお願い申し上げます

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市谷柳町住人列伝①~松井定員

 法務局でいう地番制度では25-2という場所に、戦前期まで松井家という家がありました。いまはコスモ市谷というマンションが向かいとなる角地にあたります。
 確認できる当主順では、松井定員→松井定克→松井定之となっています。
 最近になって、この松井家のルーツが判明しましたので記述します。

 松井家は代々村松藩(現新潟県五泉市)に仕えた家柄でした。幕末期には110石(若干変動あり)の家禄をいただく家柄で、松井新兵衛の息子が弘(ひろむ)でした。
 松井家は基本的には在所の村松にいたようですが、江戸屋敷勤めの時期もあったようで、新兵衛の三男が刈谷藩士へ養子入りしています。もしかすれば、この時期に市谷甲良屋敷に縁があった可能性もあります。
 慶応4年(1868)になると、村松藩は会津藩と親交があったことから奥羽越列藩同盟に加わり、佐幕派として長岡方面へ出陣します。
 しかし、時の趨勢は官軍側にあると察していた勤王側の藩士→正義派は新たに藩主を擁立する運動を画策します。この隊長のひとりが松井弘でした。
 同年9月に降伏を余儀なくされるとき、この正義派の動きが官軍側に評価され、城下は戦火を免れます。このとき、年寄役を拝命した弘は名前を松井蔀(しとみ)と改めます。
 その後、廃藩置県ころまでは地元村松で活躍したようですが、明治10年ころまでには東京におりました。壬申戸籍編成にあたり名前も実名の松井定員と改めました。

 この松井定員(さだかず)が市谷柳町25番地にいたとされる史料は地券分割願で確認できます。この土地は明治11年まで甲良匠(幕府大棟梁甲良家子孫)が仕事関係と思われる材木商、森吉五郎に売却後、この市谷柳町25番地に350年以上住んでいた田畑家の当主、田畑安吉氏とともに一部を買収し、以後、昭和20年ころまでは住んでおりました。
 松井定員の没年月日は正確には不詳ですが、明治26年には弟の松井定克が養子入りしていた青木家(こちらも市谷柳町)を離縁して相続しています。ですのでそれ以前の死亡となります。なお、交流がどこにあったかは不明ですが明治中期に有馬藤太(薩摩藩士・流山で近藤勇へ投降勧告した人物)と親交があったようです。

 松井定克は宮内省(現在は宮内庁)に勤務していたようで、近隣住民からは小唄の上手な上品な紳士だったと伝わっております。
 たぶん、大東亜戦争の時期には空襲を恐れ、八王子の方に隠棲していたようですが、昭和20年に没しています。

 一応、五泉市村松郷土資料館さまからいただいた資料と村松町史等を参考に、個人所有の公文書と照合いたしました。

 こうやって書いていくことによって、無名の維新の功労者も陽の目があたれば嬉しい限りです。

(2008年12月13日の記事を加筆修正いたしました)

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