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無二無三

『新選組を探る』、『川崎尚之助と八重』、『慶応四年新撰組近藤勇始末』、『慶応四年新撰組隊士伝』著者、あさくらゆうの公式ブログです。主に取材、調査、日常のことを記しています。 *当該ブログで掲載した画像の無断転用は固くお断り申し上げます。なお、論争の道具にすることは固くお断り申し上げます。*拙ブログについての問い合わせはTOPページよりメールでお願い申し上げます

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坂本龍馬に決闘を申し込んだ男

 頭が飽和状態な日々が続き、やることがやれていない日常が続いています。

 取り急ぎ足立史談の原稿を先行しようとして一気に7割が出来ました。ここで気力消沈して、史料調査。

 春日左衛門(幕末史研究)については散在していた史料をようやく見つけたところで、来週以降の執筆になりそうです。

 また、11月の取材旅行の件もそろそろ交通手段の切符手配が必要となるのでそろそろ組み直しの時期に入っています。ちょうど京都の方より連絡をいただき、会う約束をし、また諸事情もそのときに話す予定です。

 京都は調査をする時間とこうした交流の時間で行けば必ず多忙になります。不義理はしたくありませんが、いろいろ思うこともあり、ご迷惑をお掛けすることも多々あります。

 きのうはきのうで兜惣助(兜惣介、兜左右助、甲惣介、甲宗助、甲惣助の標記あり)のことを調べてみました。坂本龍馬関連で言えば、文久3年(1863)坂本龍馬に決闘を申し込んだ男として名前が残っています。私は万延2年(1861)の天狗党佐原騒動で天狗党の党員だったことで前から知っておりました。このとき一緒に行動していたのが下村継次こと芹澤鴨であり、新家粂太郎こと新見錦とされています。

 兜惣助自体は士分ではなく、元は大貫村(現茨城県大洗町)の百姓の伜でしたが、青雲の志を持って、玉造党(天狗党)に加盟したのでしょう。

 まず、この人物の入京記録がなかったので、よく調べていない時分には信憑性がどうかとも思ったのですが、「陸奥宗光」という明治31年に刊行された書籍に登場しておりました。また乾十郎をまとめたものにも兜惣助の名前は発見できます。特に「陸奥~」はこの同年に陸奥本人が逝去していても、同年代を生きた人物は存命であり、クレームのようなものを見ていないので、まぁ、ある程度の信憑性は感じました。ただ、仲裁相手が小笠原図書頭(唐津藩主)というのはどうか?という感じでした。なぜならば、小笠原は幕府兵1600名を率いて横浜から大坂へ出兵しており、将軍家茂東帰問題、攘夷期限問題、生麦事件賠償金支払問題と絡んだ人物だったのです。小笠原は6月1日に大坂へ上陸して、ほどなく淀で駐留しました。その後、朝廷より生麦事件の件と併せて兵を動員したことを不謹慎として大坂で謹慎している状態なわけで、そんな調停ができる立場にあったかが微妙なのです。まず兜がその仲裁に載るかが微妙なのです。もしかしたら、一橋慶喜と連携していた水戸藩士の説得だったことが考えられます。

 どちらにしても決闘云々はご破算となり、兜も8.18政変によって水戸藩が駐屯していた本圀寺には帰らず、水戸へ戻ったようで、藤田小四郎の天狗党に在籍していたようです。慶応元年の処刑者リストに兜の名があります。

 こういう風に本に一瞬登場しても、傍証を当てるのは大変なことで、まとまったものもないというのがまたヒト苦労というものです。こんな感じで悩みながら進んでいる最近でした。
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