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無二無三

『新選組を探る』、『川崎尚之助と八重』、『慶応四年新撰組近藤勇始末』、『慶応四年新撰組隊士伝』著者、あさくらゆうの公式ブログです。主に取材、調査、日常のことを記しています。 *当該ブログで掲載した画像の無断転用は固くお断り申し上げます。なお、論争の道具にすることは固くお断り申し上げます。*拙ブログについての問い合わせはTOPページよりメールでお願い申し上げます

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菱屋太兵衛について



今も残る菱屋の建物
 新選組フリークで芹沢鴨といえば有名なのが、一緒に落命したお梅です。この人はもともと菱屋太兵衛の身内です。この菱屋についてもわからないことが多かったのですが、「霊山歴史館紀要」に掲載された「新選組に関する新発見の文書」(多田敏捷著)をきっかけとして公文書等をあたり、判明したことを述べたいと思います。


 菱屋太兵衛がいつからいるのかは不明ですが、寛政年間の古文書で確認できることからそれ以前、1790年以前にはこの地におり、山名町では五人組のひとりだったようです。

 まず、文久3年当時、菱屋太兵衛を名乗った人物は実名を正民と言います。年齢はわかりませんが、兄が文政10年(1827)に生まれていますので、それ以降になります。初名を半次郎と言い、先々代の太兵衛、母りつの次男として生まれております。つまり家督者ではありませんでした。当然家督は先代となる兄、清七(のちに太兵衛を襲名)が嘉永4年(1851)に家督を継ぎます。このとき改名して太郎助を名乗りました。

 このときの菱屋太兵衛は山名町では名士となり、組合町の町年寄として町政の一端を担っておりました。

 この先代の兄、太兵衛は文久元年に亡くなりました。子供は娘のみだったようで、翌年、太郎助は兄の家督を継ぎ、太兵衛を襲名しました。

 このとき、太兵衛に妻がいたかどうかは史料がないので存じませんが、わかっているのは家督を継いだ文久2年には子供がいなかったことです。

 残念ながら幕末維新期において、菱屋がどのように翻弄されたかは不明です。ただ、新選組が屯所として使用していた前川家の本家の祖母が太兵衛の祖母だったようで、その縁で新選組と関与してお梅もまた芹沢鴨と関わったのかも知れません。

 菱屋は明治の終わりまで稼業である太物商を続けておりましたが、業界全体の不景気のため、閉店したそうです。ただ、運良く建物(本屋)は所有者に恵まれ、現存しています。

 明治22年(1889)8月6日、木南太兵衛正民は亡くなりました。墓所は代々の西大谷墓所にあります。

 ご冥福をお祈り申し上げます。

 なお、お梅は菱屋墓所には入っておりません。死去の原因も原因なので、仕方ないことなのかも知れません。
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