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無二無三

『新選組を探る』、『川崎尚之助と八重』、『慶応四年新撰組近藤勇始末』、『慶応四年新撰組隊士伝』著者、あさくらゆうの公式ブログです。主に取材、調査、日常のことを記しています。 *当該ブログで掲載した画像の無断転用は固くお断り申し上げます。なお、論争の道具にすることは固くお断り申し上げます。*拙ブログについての問い合わせはTOPページよりメールでお願い申し上げます

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ぽんぽんとの戦い~そして芹澤鴨

17日
15:00、ダウン。

18:00、そのまま眠りに就く。

21:30、起床(爆)

 ところで最近、芹澤鴨の出自に関するニュースが一部で盛り上がっております。

 そもそも…下市(水戸藩の士族の居住地域には上市、下市とあって、墓所も分けられている)芹澤家の出自ではないかと今さらながら…。

 現況、それはないです。何故なら三兄弟は判明しているからです。それは又右衛門、助次郎、亀三郎です。このうち、助次郎は敦賀で処刑されており、天保14年(1843)生まれです。つまり、三兄弟の年齢で、又右衛門と助次郎の間の子とするなら、律儀に助次郎、亀三郎と名前を付与するのはおかしい訳です。

 あと…いつも思っているのですが、芹澤鴨の芹沢村について、よく玉造村芹沢みたいに、玉造を強調する方々を散見します。はっきり言って、それを書いた人物自体、知識がない方と確認できます。
 
 つまり、地域の変遷は事実であり、不変なのです。一応、下記に掲載します。

行方郡芹沢村(~1899)
行方郡現原村芹沢(1899~1954)
行方郡玉造町芹沢(1955~2005)
行方市芹沢(2005~)

 これでわかる通り、玉造村が現原村と合併したことにより、「玉造町」の称号が付いたのです。それまでは現原村で、旧玉造村とは交流はありませんでした。実際に幕末期の玉造郷校の設立に関与した大山守の大場家の文書によれば、芹澤一族及び家臣団は関与しておりません。その代わり、小川郷校には「芹澤兵部」の名前が確認できます。つまり芹澤一族は旧小川町の方に交流があったことは確認が取れている訳です。そうした基礎知識を入れないままに仮説を建てれば重大な欠陥が生じます。

 ともあれ…実は体調不良もあって、告知しなかったのですが、昨年末に芹澤鴨の論文を『茨城史林』に掲載したい旨、担当者に話しておりました。そこでなにかしら書こうと思います。たぶん来月には『下市芹澤家』のその後が少しわかると考えております。

18日
起床時間不明。

10:00、川崎さんより電話。3月の件。

11:00、とりあえず、21日の宿泊先を確保。

 その後、悪寒で横臥。

150118_163303.jpg
16:00、ようやく良くなって少しお出かけ。なんか知りませんが、谷中ねこがある団体に管理されております(爆)なんか怖いですね。私はシビリアン・コントロールに見えました。

24:00、就寝。
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